大島渚と村上春樹

1995年、学部2年生の時、金春美先生の「日文講読」という授業で大島渚の文章「不可能性の発見」を読みました。自分に何ができるかを探す歳から、自分に何ができないかを探す歳へと変わる時期が人生にやってくる、といった内容です。当時は日本語の勉強に精いっぱいで、文章の内容まで噛みしめる余裕はなかったのですが、それでも、何か心に響くところあって、コピー本を捨てずに持っていました。それから20年あまり、大島渚のこの文章が時々思い浮びます。

同じような文章として、村上春樹の『国境の南、太陽の西』も、最初読んだ時は特に何といったこともなかったんですが、その後、兵役の間、村上春樹の他の小説ではなく、この小説を時々思い浮かべたりしていました。

私は村上春樹の小説を読むのを『ねじまき鳥クロニクル』で終えていたのですが、それは、自分に響いていた村上ワールドはもう存在しない、といった感覚を『ねじまき鳥クロニクル』を読んで受けたからです。夏目漱石が留学から帰って書いたいくつかの文章は好きで、そのごの重苦しい小説は好きじゃないのと同じです。

それから数年が経ち、兵役が終わったころ、偶然、『アンダーグラウンド』の韓国語訳を読みました。小説ではなくルポルタージュであるはずのこの文章を読んで私は、ここに自分の好きだった村上ワールドが蘇っていると感じました。

2013年から何人かの若い人たちと日本語の文章を読む会を続けていますが、今度、「不可能性の発見」と『アンダーグラウンド』を一緒に読んでみようと思います。