『アジア遊学 198:海を渡る史書ー東アジアの「通鑑」』拙序文

今日から販売が始まった『アジア遊学 198:海を渡る史書ー東アジアの「通鑑」』に載せた拙序文です

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「板木の森を彷徨い、交流の海に至る」(金時徳)

「通鑑」という名を冠する一群の史書がある。司馬光が一〇八四年に完成した『資治通鑑』から朝鮮時代の『東国通鑑』、江戸時代の『本朝通鑑』に至るまで、千年の間、「通鑑」は中国・韓国・日本・琉球・ベトナム・台湾へと、ユーラシア大陸の東海岸を渡り歩いた。前近代において、隣国に伝えられ、影響を与えた漢籍は「通鑑」の他にも数多く存在する。そんな中、今回、「通鑑」を取り上げて特集を企画したきっかけとなったのが、二〇一四年十二月にソウル大学・奎章閣韓国学研究院で再発見された『新刊東国通鑑』の板木である。

『資治通鑑』は成立間もなく韓半島の高麗王朝に伝来し、朝鮮時代には『東国通鑑』を生み出した。一五九二〜九八年の壬辰戦争(豊臣秀吉の朝鮮侵略、文禄・慶長の役)の際、『東国通鑑』の板本が朝鮮から日本に略奪された。江戸時代になると、『東国通鑑』は、一方では『新刊東国通鑑』というタイトルの和刻本として再誕生し、もう一方では『本朝通鑑』という史書の誕生を促した。これらの「通鑑」が、それぞれの伝来と享受の過程でその他の史書・文献の誕生を刺激したことは言うまでもない。

一九一〇年に日本が朝鮮を併合すると、その反発から、一九一九年に韓半島で三・一万歳運動が発生した。この年、長谷川好道第二代朝鮮総督は『新刊東国通鑑』の板木五三五枚を旧奎章閣に寄贈した。一九二〇年代まで存在が知られていた板木は、その後、行方不明になる。そして、九〇年後の二〇一四年に、五三三枚の板木が再び姿を現したのである。写本や板本が海を渡ることは普通に見られる文献往還の形であるが、本として海を渡った文献が、板木となって本国に戻ってくることはあまり聞かない。

中国から韓国、日本へ、再び、日本から韓国へ。「通鑑」は何度も海を渡りながら、友好的な文化交流、国際戦争、一国の滅亡と復活を経験した。このように数奇な運命を辿った「通鑑」が、今回、来たるべき未来の学問の形へと私たちを導こうとしている。時代的には十一世紀から二十世紀まで、地域的には中国・韓国・日本・琉球、学問領域的には政治・思想・歴史・文学・書誌学を合わせる本集は、「通鑑」という文献に頼って様々な専門を渡り、諸学問の壁を越える試みである。この挑戦の末に何が見えてくるだろうか。

個人的なことを申し上げて恐縮であるが、劇的とはいえないまでも、それなりに屈曲のある四十年を生きる間、本は、原本資料は私を次の縁へと導いてくれた。今回、「通鑑」が本特集の執筆者と読者の方々に新しい学問の形を示してくれることを信じる。

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