シンポジウム「日本近世文学と朝鮮」傍聴記 - 海外の近世文学研究者からの提言 - (『近世文芸』96、2012-07 )

3年前、日本近世文学会の『近世文芸』96号に掲載された拙稿です。去る12月31日に韓国古典翻訳院に投稿した拙稿「古典韓国学にできることは何か」(http://www.minchu.or.kr/itkc/post/PostServiceDetail.jsp?menuId=M0445&clonId=POST0019&postUuid=uui-7b212087-2315-4496-a7e0-6aa1)と対を成すと思ったので、ウェブ公開します。

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シンポジウム「日本近世文学と朝鮮」傍聴記 - 海外の近世文学研究者からの提言 -
金時徳『近世文芸』96、2012-07

今回のシンポジウムの全貌に関しては、染谷智幸・長島弘明の両氏によるご報告があると思われる。従って、拙文では、すべての発表に関するコメントは控え、「日本近世文学と朝鮮」というテーマに関する筆者の平素の考えを交えながら、それに沿って、二日目に行われた個別の研究発表も含めて、いくつかの発表を取り上げていきたいと思う。

まず考えなければならないのは、「日本近世文学と朝鮮」というシンポジウムのタイトルに含まれている「朝鮮」という言葉の曖昧さである。この「朝鮮」とは、韓半島(朝鮮半島)に存在した諸国を総称する言葉として日本でよく使われる「朝鮮」なのか、あるいは、日本近世文学会の研究対象となる江戸時代と同時代に韓半島に存在した「朝鮮(王朝)時代」なのか。この「朝鮮」という言葉の曖昧さによって、シンポジウムの統一性がやや損なわれたような気がしたのは筆者一人の感想なのだろうか。

韓国人を含む外国人が近世の日本文学を研究する際には、大きく二つの方法が選ばれる。一つは、日本人が行うのと同じ方法で個別作者・作品・ジャンルを研究することであり、もう一つは、近世期における自国と日本との関連や相互影響を研究することである。韓国と日本の関係から考えると、前者は総称としての「朝鮮」=韓国の研究者による研究であり、後者は、「朝鮮時代」と近世日本との比較研究である。日本人の研究者が「国文学」を対象として行うのと同じ研究を「朝鮮」=韓国の研究者が行うということを、日本文学・文化の研究が世界的な広がりを見せる今日、改めて取り上げる必要はないであろう。未だにこのような状況を珍しいと思うのは、ある意味、逆に彼らのような日本国外の研究者に対して失礼であるといえるかもしれない。一方、後者に対する比較研究の場合、今まで行われてきた先学の研究では網羅的・一般的な議論が多く行われてきた。例えば、どのような作者のどのような文献に朝鮮や中国・某王朝に関するこのような言及が見える、という風にである。故中村幸彦氏の普遍的な学問観によって開かれ、韓日両国の研究者によって継承されたこの種の研究は、初期段階の研究としては意味を持つが、今は、もう一歩踏み入った研究が要求される時期になったのではないかという不満もなくはない。今回のシンポジウムでは、染谷智幸氏による「大会趣旨」やいくつかの発表から、そのような未来への兆しが見えてきたような気がした。

大会冒頭の「大会趣旨」で、染谷智幸氏は二つの問題を提起された。

①日本ではなく韓国(朝鮮)という場所で日本文学、特に近世文学を研究する意義とは何か。そこから、日本では感取・味読できない問題点や世界があるとすれば、それは何か。

②趣旨にも書いたように、従来の近世文学研究における東アジアへの眼は、主に中国に向けられたものだった。そこから多くの成果が生まれてきたが、そこに朝鮮という視座を据えることで、どのように新たな知見や問題点が浮上してくるのか。
このようなカテゴリの設定は、筆者による「朝鮮」と「朝鮮時代」の区分という問題意識と一致する。特に、②に関しては、朝鮮時代の文学・文化を研究する韓国人が、その成果を日本に積極的に発信する姿勢が十分ではなかったという事実も見逃せない。一方で、二つのカテゴリは、いずれも日本人の研究者からの視線という点も指摘しなければならない。もちろん、①で、韓国人が近世文学を研究する意義が問われてはいるが、その研究の結果が日本側に示唆する点は何か、という問題が主に問われているのである。ここで、筆者はもう一つの問題を提起したい。

③韓国人が日本の近世文学・文化を研究する理由・意義は、その他の国、特に、欧米出身者における研究の理由・意義とは異なる。現在、世界的な地域学の流れにおいては、日本学が衰退し、中国学が人気を博しつつある。アメリカなどがその代表的な事例である。しかし、特に、朝鮮時代の韓国は日本との緊密な歴史的な関係を有していて、その結果、膨大な量の近世日本の情報が蓄積された。また、植民地時代には、朝鮮総督府・京城帝国大学などに数万点の日本文献(そのうち、近世の和本は数千点)が所蔵された。日本の政策によって韓半島に持ち込まれた和本は、日本の敗戦後も韓半島に残され、最近は、主に日本人研究者による調査研究がなされている。極言すると、韓国側は和本を保存したにすぎない。最近になって、韓国学界の内部から、朝鮮時代と近世日本との交渉の産物や近代に持ち込まれた和本への自覚が訴えられ、そのための研究力量も着実に強化されている。このような点にも、韓国人が日本近世文学を研究する意義がある。

ともかく、先の②の問題提起に関しては、韓・日両国の研究者による共同研究(染谷智幸・鄭炳説『韓国の古典小説』(ぺりかん社、二〇〇八年)や、韓国・成均館大学の安大会氏の研究(「一八・一九世紀の朝鮮の百科全書派と『和漢三才図会』」『大東文化研究』六九)、そして、次に言及する高橋博巳氏の研究などが注目される。高橋博巳氏のご発表「朝鮮通信使から学芸共和国へ」は、単著『東アジアの文芸共和国 - 通信使・北学派・蒹葭堂 -』(新典社、二〇〇九年)における説に基づいて行われたものと思われる。氏は、十八世紀の朝鮮が日本と中国・清朝に派遣した使節一行の文化的な交流の実態に注目する。そして、近世における東アジア三国の文化交流は、これまで考えられてきた以上に親密なもので、「学芸共和国」ともいえる状況であったと主張される。氏のこのような説については批判もあり、筆者の場合は、氏が取り上げられる十八世紀の事件は、注目すべきではあるが特殊な事例であると見做す立場である。にもかかわらず、氏のご研究は、批判されながらも、今なお日本人の意識に潜んでいる「鎖国下の近世日本」という観念の最終的な廃棄を促すものとして重要であると思う(大島明秀氏の『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』(ミネルヴァ書房、二〇〇九年)は、このような点で注目される最近の研究である)。

(中略)

最後になるが、筆者は、「日本近世文学と朝鮮」というテーマから、対馬・福岡・熊本・鹿児島などを中心とする九州地域に形成されている文庫・文書群を徹底的に調査・研究する必要があると考える。関東・関西の各機関に所蔵されている文献の多くが、近代学問の成立と機関の成立によって意図的に収集されたものである。一方、これらの地域には、朝鮮時代の韓国との歴史的な関係によって蓄積された文献が数多く残っている。この地域の文献を調査・研究する際には、文学「作品」と「史料」を区別することなく、それぞれの文庫・文書群を網羅的に扱う必要があるであろう。
また、韓国の研究者は、壬辰戦争の際に齎された朝鮮の文献や通信使、対馬などの問題を研究するにおいて、皮相的な理解に基づいて一方的な影響関係を主張したり、朝鮮と近世日本とを単純に比較することを避けて、近世日本の文学・文化・歴史への深い理解のもと、慎重に比較研究を進める必要がある。また、オランダ・清・琉球・蝦夷地・ロシア・東南アジアなどと近世日本との交流の実態にも注目し、近世における朝・日関係と比較する必要があるであろう。一方、日本の研究者は、非政治性を追求した末に現れる純真な日本中心主義を避ける必要がある。実名は挙げないが、某大物言語学者が、いわゆる「神功皇后の三韓征伐」に関して、「皇后が征伐した後も半島の国々は従順せず、時々反抗を起こしたのは迷惑なことであった」という趣旨の文章を書いたのを読んだことがある。近世文学界にも、特に、戦前においてはそのような研究が散見するので、そのような研究に対しては批判的に継承する必要がある。
ここまで、日本近世文学会史上はじめての海外大会の傍聴記を書かせていただいた。断言できるのは、「日本近世文学と朝鮮」というテーマには、信頼できる先行研究が蓄積されていて、研究のさらなる跳躍の時期が訪れつつあるということである。このような歴史的な転換点を設けてくださった事務局の先生方や関係各位に厚くお礼を申し上げる次第である。本当にありがとうございました。