2001年9月11日

9・11事件の10周年の今日です。当日の記憶を拙著『異国征伐戦記の世界』「あとがき」に綴っておきましたので、その一部を引いてくることで、あの事件に関わるすべての方々を追悼いたしたく存じます。



二〇〇一年九月一一日。

 あの日の夜。ソウルのとある地下鉄駅のホームで帰宅の電車を待っていた私に、友達からの電話があった。「お前、軍隊に戻されるかもしれないよ」「何のことだよ」「テレビ、見てないのか。アメリカでテロが起きたよ。お前、まだ予備軍だろう。召集されるかもしれないぜ」。当時は、スマートフォンなどまだ普及しておらず、ニュースが見られたのは、それから一時間後だった。テレビの速報映像には、世界貿易センタービルが次々と崩れていく様子が流れていた。あたかもハリウッド映画のように。その後、アメリカは、テロへの復讐という名目でアフガニスタンを侵攻し、大量破壊兵器を隠したとしてイラクを侵攻した。あの日の友人の話は、アメリカと軍事同盟関係にある韓国の現状を踏まえた、文字通り「アメリカンジョーク」だった。ともかく、アフガニスタンのタリバン政権と九・一一事件との関係は今なお証明されていない。イラクのフセイン政権が隠したと主張されていた大量破壊兵器は、そもそも存在しなかったことが明らかになった。世界の安全を守るためにイラクを先制攻撃するのだといったアメリカの名分は、結局、成り立たなくなった。
 二〇〇一年以来のアメリカの行動の根底には、超大国アメリカが抱いてきた被害意識・被侵略意識がある。外からの侵略に対抗し、または、予想される侵略を予防するために戦争を起こすというパターンは、アメリカの建国当初から見受けられる。それを象徴するのが、西部劇であり、SF映画である。アメリカ先住民を西へ西へと追い出す形で展開された西部「開拓」は、一方では、「白人の責務」(キプリング)という言葉によって正当化され、一方では、「フロンティア精神」という言葉で美化された。西部開拓時代が終わった一九世紀の後半から盛んに制作された西部劇には、夢を抱いて西に向かう善良なる西洋人の農民を襲撃する野蛮な先住民の戦士が頻繁に登場する。同じく、二〇世紀の西部劇ともいえるSF映画には、宇宙を探検し、新しい惑星を「開拓」しようとする善意の地球人(どうもアメリカ人に見えて仕方ないのだが)を襲撃する化け物の宇宙人が多く登場する。西部劇にしろ、SF映画にしろ、攻撃される側の英雄的な戦いぶりと、攻撃する側の野蛮性・異形性とが劇的に描かれる。しかし、そもそも、どうして、攻撃される側がそこにいたのか、という疑問が提起されることはない。
 私は、九・一一事件以来のアメリカの軍事行動から、同様の問題意識を感じている。そもそも、アメリカはどうして攻撃されたのか。ここで、私は極端な文化相対主義を主張するつもりはない。現代社会を中世の神政体制に戻そうとするイスラム過激集団は、根本的に間違っている。しかし、アフガニスタンとイラクとが今のような不安定な状況に陥った原因の一つは、アメリカを含む欧米勢力の、近代以来の世界戦略であり、その戦略の焦点は石油であるといっても過言ではない。 アメリカは石油の安定的な確保のために中東世界の現状を維持しようとし、そのためには有形・無形の介入を辞さない。その対極に、アルカエダのような過激派が存在するのではないか。アルカエダは、中東におけるアメリカの存在から自己集団の存在意義を与えられ、アメリカは、アルカエダのテロによって自己集団を被害者として位置づけ、一連の戦争を正当化することができた。敵対的な共生関係といわざるをえない。ところで、アメリカのこのような動きは、アメリカに固有な行動パターンでは、決してない。有史以来、古今東西、規模の大小を問わず、それぞれの集団は様々な論理で、自己集団による戦争を正当化してきた。戦争を正当化するプロセスとして、本書では、<攻撃の論理>・<防御・反撃の論理>の二つの論理を提示したわけである。この二つの論理によって正当化された戦争を、欧米では「Bellum Iustum」(正当なる戦争)と呼び、東アジアでは「征伐」と呼んだ。